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前橋地方裁判所 昭和61年(ワ)20号 判決

原告

原澤米子

外三名

右四名訴訟代理人弁護士

三輪亮寿

野村義造

野上恭道

野上佳世子

被告

日本赤十字社

右代表者社長

山本正淑

右訴訟代理人弁護士

饗庭忠男

山岡正明

石原栄一

岩崎茂雄

白田佳充

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告原澤米子に対し、金三九一〇万〇〇四五円及びこれに対する昭和六一年二月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を、原告原澤春代、原告砂盃多美子及び原告奥泉典子に対し、各一一四〇万〇〇一五円及びこれに対する前同日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

第二  事案の概要

一  争いのない事実

1  当事者

(一) 原告ら

亡原澤泰典(当時六一歳。以下「亡泰典」という。)は、群馬県前橋市朝日町三丁目九番二号において、事務所を開設していた税理士であり、原告原澤米子は、亡泰典の妻、原告原澤春代、同砂盃多美子及び同奥泉典子は亡泰典の子である。

(二) 被告

被告は、同市朝日町三丁目二一番三六号において、前橋赤十字病院の名称の病院を営むものである。

2  亡泰典と被告との間の診療契約の締結

亡泰典は、昭和六〇年五月一四日午前九時三〇分ころ「車に酔ったらしい」と言って吐き気を訴え約二〇cc吐血し、同日午前一〇時三〇分ころ、掛り付けの杉本医院で受診し、点摘と止血剤の注射の処置を受けたが、同日午後七時一〇分ころ、自宅のトイレで倒れ、約一八〇ccの吐血をしたことから、救急車で前記前橋赤十字病院(以下「被告病院」という。)に搬送され、被告と胃潰瘍の治療を内容とする診療契約(準委任契約)を締結した。

3  被告による診察・治療の経過と亡泰典の容体経過

被告病院に医師として勤務する外科部長塩崎秀郎(以下「塩崎」という。)及び勤務医小玉仁(以下小玉という。)は亡泰典に対し、同病院の業務として、同日より治療を開始して同月一六日に胃切除のための開腹手術(以下「本件手術」という。)を行い、その後の術後治療を行ったが、亡泰典は、心不全・呼吸不全が進行し、多臓器不全に陥った。

その間の治療及び容体の経過は、概ね次のとおりである。

(一) 本件手術前の経過

(1) 五月一四日

亡泰典は、午後七時四〇分、救急車で病院に到着したが、吐血後のショック症状があり、血圧八六/三〇mmHg、脈拍(P)九四回/分、貧血様、腹壁軟、腸雑音減弱、肥満と診断ないし判断され、輸液(ハルトマン五〇〇ml+止血剤)及びセクレパンAの投与を受けた。

午後九時に入院となり、輸血一本を受けた。同時刻には、血圧一一二/七二mmHg、P一〇八回/分、午後一一時三〇分には、血圧九〇/六〇mmHg、P九六回/分であった。

(2) 同月一五日

亡泰典は午前零時ころ、胃カテーテルからの暗血性流出約一〇〇mlがあり、輸血一本を受けるとともに生理食塩水で胃洗浄を受けた。午前六時、血圧九八/四〇mmHg、P七二回/分で止血の状態であった。その時点までに胃カテーテルからの流出量四〇〇ml、尿量合計四〇〇mlがあって、輸液合計二一〇〇mlを施された。

午前八時三〇分、血圧一四八/九〇mmHg、出血なしであったが、胃洗浄のうえ胃カメラ検査を受けたところ、巨大潰瘍(二cm×四cm)が発見され、保存的止血は困難と判断された。午後二時ころには、翌一六日の手術実施が決定され、輸血二本を受けた。午後九時の血圧は、一一〇/六〇mmHgであった。

(3) 同月一六日

亡泰典は、午前六時、上腹部痛があったものの、血圧は一三二/八〇mmHg、P八四回/分であった。午前一〇時三〇分、生理食塩水(五〇〇ml)による洗腸を受け、トイレまで歩行して黒色大便を大量に排泄した。

午前一一時、麻酔科の診察を受け、貧血(Hb9.7g/dl)、心臓弁膜症の既往症があるものの十分麻酔に耐えられると判断された。血圧一五〇/九〇mmHg、P八四回/分であった。

亡泰典は、午後一時、便意があり、トイレまで歩行したところ、気分不良となり、蒼白・冷汗の症状を呈して出血性ショックの状態に陥り、血圧が五〇/(測定不能)mmHgとなった。午後一時一〇分、二回にわたって凝血多数を含む合計二〇〇mlの吐血(以下「本件吐血」という。)をしたため、冷水による胃洗浄及び輸血を受けた。午後一時二〇分の血圧は九〇/(測定不能)mmHg、Pは八四回/分であったが、輸血の終了した午後一時五〇分、血圧一一〇/六〇mmHg、P一二〇回/分となった。午後二時に胃洗浄を受けたところ、胃カテーテルから血性の流出があった。午後三時、血圧は一三〇/七〇mmHg、Pは一二〇回/分であり、こげ茶色の水様便があり、胃カテーテルからの流出も合計一七〇mlとなった。午後三時二〇分には、胃カテーテルからの淡血性流出二〇〇mlがあり、二本目の輸血を行った。そして、午後三時三〇分に手術室へ移動した時の血圧は一一〇/六〇mmHgであった。

(二) 本件手術の経緯

本件手術は、午後四時三一分、全身麻酔のうえ小玉の執刀で始められた。

小玉が、まず、上腹部正中切開にて開腹したところ、腹水症はなく、胃は膨張し、胃角部小弯側に硬結があり、また、膵臓前面から小網に癒着があったが、肝臓及び胆嚢機能は正常であり、ダグラス窩に異常はなく、脾臓は背側に深く位置し、授動できなかった。そこで、大網を切離し、右胃大網動脈を結紮し、一二指腸を授動し、小網を切離し、右胃大動脈を結紮したうえ、十二指腸を幽門部から約一cm離して切離し、胃内容物を排出した。その際、多量の凝血が出てきた。

次に、脾臓背面にひも付きガーゼを入れて授動し、大網を短胃動脈近傍まで切離し、左胃動脈下行枝を切離し、ペッツ(ペッツ氏の胃縫合器)にて胃切をしたうえ、ビルロートI法(切除した胃の残部大弯部と十二指腸とを吻合する方法)により胃の再建をした。

ところが、洗浄すると左横隔膜下に血液が貯留していたことから、検索すると、脾臓大腸間膜が裂け出血していた。そこで、小玉から塩崎に執刀者を代え、左横切開を追加し、短胃動静脈にケリー(鉗子の一種)を掛け、残胃の色が変わらないことを確認して止血のために脾臓摘出をした。しかしながら、完全な止血ができなかったことから、出血に対する処置として、左横隔膜下にペンローズ(ドレーン)、デュープルドレーンを、吻合部と左肝下面にペンローズを、それぞれ挿入して閉腹し、午後八時三〇分、完全な止血をみないまま手術を終了した。なお、手術中の出血量は、約一二六一mlであった。

(三) 本件手術後の経過

手術後三日目ころ、腹腔内の出血を排出するために左横隔膜下に挿入したドレーンからの出血はほぼ止まったが、亡泰典の全身状態は悪化の一途を辿った。

4  亡泰典の死亡及びその死因

亡泰典は、同月二六日午前一時四分、被告病院において、多臓器不全のため死亡した。

亡泰典の死亡に至る経緯は次のとおりである。すなわち、同月一四日、一六日の前記吐血による出血性ショックのため、これらがいずれも加療によって一時的な回復をみたとはいえ、亡泰典の呼吸・循環機能の予備力の低下をもたらしていたところ、亡泰典に加えられた約四時間にもわたる本件手術と手術中の出血が過大な侵襲となってしまい、呼吸不全と心不全を惹起し、その後の回復を困難にしていた。一方、胃切除術の際に腹腔内の汚染のため、腹腔内感染症が発生し、本件手術において完全な止血をしなかったことから残存していた腹腔内出血が右感染症を一層に悪化させていた。このような、呼吸不全・心不全と感染症があいまって、敗血症を引き起したうえ、DIC(汎発性血管内血液凝固症候群)となり、ついには多臓器不全に陥ったものである。

二  原告らの主張(被告の責任原因)

1  債務不履行責任

亡泰典は、後記(一)、(二)の一つまたは複数の注意義務違反行為に伴う「本件手術中・手術後の継続的な大量出血」または「本件手術中・手術後の継続的な大量出血及び手術前の出血性ショックにおける循環状態の不十分な改善」を契機にして、心肺不全・感染・多臓器不全によって死亡した。

(一) 小玉の治療行為上の注意義務違反

小玉の亡泰典に対する診断ないし治療については、次のとおりの注意義務違反がある。

(1) 手術の選択に関する注意義務違反

① 手術の選択をしたこと自体についての注意義務違反

亡泰典の症状は、昭和六〇年五月一四日夜、非穿孔性の胃潰瘍の大量吐血によるショック状態に陥り、被告病院に救急入院したものであって、かなり重篤な貧血及び脱水症状になっていたうえ、本件手術当日である同月一六日午後一時ころにも本件吐血をし、再びショック状態に陥ったものであるが、手当により、いずれの際もショック状態を脱していた。

このようにショック状態を脱していた亡泰典の症状に照らすと、本件手術を実施せずに保存的療法により治療することもなお可能であったのであるから、このような場合、医師としては、保存的療法による治療をすべき注意義務があったのに、小玉は、これをせずに安易に手術の選択をして、亡泰典に不必要な手術侵襲を加えた。

② 手術時期の選択についての注意義務違反

仮に亡泰典の症状が手術を要するものであったとしても、このような貧血及び脱水症状といった循環動態の悪状況を改善しないままの状態下において、出血性胃潰瘍の開腹手術を強行すれば、心臓に対する手術侵襲の負担が過重となり、手術後に心不全、肝不全、肺不全、敗血症、糖尿病又は呼吸不全等を惹起し、併せて肺炎等の感染症を生じ、死亡に至らしめることは十分予見できたものであり、しかも、亡泰典の症状からみて、本件手術を延期し術前に循環動態を十分に改善する余裕があったのであるから、このような場合、医師としては、亡泰典の循環動態が改善されるまでの間、本件手術の時期を延期すべき注意義務があったのに、小玉は、これをしなかった。すなわち、亡泰典の循環動態が改善され臓器予備力が回復するのをまたずに本件手術による手術侵襲を加えた。

③ 循環動態の改善についての注意義務違反

仮に亡泰典の症状が本件手術の実施時期を延期することができないものであったとしても、本件手術に備えて亡泰典の循環動態の改善をする必要があり、しかも、本件吐血によってショック状態に陥ってから本件手術の開始までの間に約三時間もの時間があったのであるから、このような場合、医師としては、出血量及び出血部位等を確認のうえ、本件手術の開始までの間に可能な限り循環動態を改善したうえで、本件手術を行うべき注意義務があるのに、小玉は、これを怠り、出血部位の確認をしただけで、循環動態を正確に把握することなく、漫然と必要量に比べて遥かに少ない量の輸血及び輸液をしたに止まり、循環動態の改善を十分にしなかった。すなわち、失血量の正確な推定をするのに必要なCVP(中心静脈圧)検査等の実施や急速輸血による十分な循環血液量の補給をせずに、失血性原性ショックにおいて禁忌とされる昇圧剤を使用(しかも、昇圧剤としてエフェドリンを静脈注射する用法違反もしていた。)し、見せ掛けだけの循環動態の改善をして満足し、ショック離脱につき誤った判断をした。そればかりか、本件手術の前に亡泰典に対し「トイレに行くように」との指示をし、本件吐血を誘発して循環動態をさらに悪化させるおそれのある指示をし、本件手術前に循環動態を十分に改善するどころか、かえって悪化させた。そのため、循環動態が十分に改善されておらず、臓器予備力の低下したままの状態で、亡泰典に対する本件手術を行うことになった。

(2) 本件手術の術技上の注意義務違反

大量吐血によりショック状態を起こした患者の場合、循環動態が不良なうえに、輸血による出血傾向を招くおそれが大きいのであるから、このような場合、医師としては、細心の注意と最高の技能をもって手術にあたり、他の臓器を傷つけないように注意を払い、不必要な手術侵襲を加えないように手術を実施すべき注意義務があるのに、小玉は、本件手術自体において、亡泰典の脾臓を傷害したうえ摘出したり、更に深奥の内臓器の傷害による大量出血を招いたりしたうえ、約四時間にも及ぶ過大な手術侵襲を加えた。すなわち、小玉の技能は低く、胃切除に際して脾臓の損傷等を生じさせ、多大の出血をさせながら、その止血をできず、遂には塩崎に処置を交代されるに至ったもので、本来避けられたはずの過大な手術侵襲を亡泰典に加えた。

(3) 術後管理の注意義務違反

手術を受けた患者については細菌感染のおそれが高いのであるから、このような場合、医師としては、手術後の細菌感染の防止を十分に講じるべき注意義務があるのに、小玉はこれを怠り、亡泰典に腹膜炎ないし劇症肝炎を罹患させ、ひいては、DIC、多臓器不全に陥らせた。

(二) 塩崎の治療行為上の注意義務違反

塩崎の亡泰典に対する治療については、次のとおりの注意義務違反がある。

(1) 小玉に対する指導監督上の注意義務違反

塩崎は、研修医小玉の上司として、同医師に対する指導監督の任に当たるべき職責を負うものであるところ、同医師をして亡泰典の執刀者とした。そして、本件手術が、亡泰典の容体に照らして困難で危険な手術となりうることが予想されていたのであるから、このような場合、医師としては、研修医小玉に対する十分な指導監督を行うべき注意義務があるのに、塩崎は、本件手術において、技量未熟な小玉に執刀させたばかりか、十分な指導監督をしなかったため、脾臓を損傷させてその摘出のやむなきに至らせ、本来避けられた手術侵襲を亡泰典に対して加えるといった手術自体のミスを招いた。

(2) 完全に止血をしなかった注意義務違反

塩崎は、亡泰典の脾臓の摘出をしたものの、なお出血が止まらず、その部位の確認すらできていなかった。そして、この出血をそのまま放置すれば、細菌感染等により亡泰典の生命にとって危険な状態が生じうべきことを予見できたのであるから、このような場合、医師としては、完全ないし十分な止血を処置すべき注意義務があるのに、塩崎は、小玉と本件手術の執刀を交代した後、十分に止血しないままに閉腹縫合した。

(3) 術後管理の注意義務違反

前記(一)(3)の小玉における術後管理の注意義務違反と同旨。

2  不法行為責任(原告らは、被告の債務不履行責任と不法行為責任とを選択的に主張している。)

被告の前記1(一)及び(二)の各注意義務違反は、それぞれ不法行為上の過失にも該当する。

三  被告の主張

1  債務不履行責任について

亡泰典は、本件手術前の少なくとも三回にわたる出血性ショックを引き金にして、本件手術による不可避的な手術侵襲も加わって、心肺不全を生じたうえ、本件手術前からの併存症の影響で回復が遅れているところに感染が加わって劇症化したため、多臓器不全に陥って死亡したものであって、その間の被告の診断ないし治療に注意義務違反はない。

(一) 小玉の治療行為上の注意義務違反の不存在

(1) 手術の選択に関する注意義務違反の主張に対する反論

① 手術の選択をしたこと自体について

亡泰典の胃潰瘍の症状は、二cm×四cmの大きさで、二本の血管が露出する状態であり、投薬治療によっては一時的止血が可能なだけで、手術(緊急ではあるが待期手術で足りた。)を要し、手術適応にあった。その後本件吐血によりショック状態に陥って、絶対的手術適応の状態となり、緊急手術が必要となった。

② 手術時期の選択について

小玉は、本件吐血による亡泰典の出血量を約四〇〇ないし五〇〇mlと推定し、輸血合計四〇〇mlと脱水を考慮して輸液合計約二一〇〇mlを施しており、その後、亡泰典の血圧が一一〇/一三〇mmHgに保たれ、尿量も翌朝まで四〇〇mlあり、乏尿の様子がなかったのであるから、手術前の本件吐血によるショック状態を踏まえても、重篤な合併症を予期することはできなかった。

③ 循環動態の改善について

小玉は、亡泰典の循環動態を改善するため、右のとおり輸血・輸液の処置と、血圧維持の処置をとっており、これ以上の輸血等は、必要以上の血圧上昇を招き、再出血を促しかねなかった。

なお、手術前の本件吐血によるショック状態は、小玉のトイレ使用許可によるトイレへの歩行がその原因ではないし、そもそも歩行の許可をしていない。

(2) 本件手術の術技上の注意義務違反の主張に対する反論

胃切除に際しての脾損傷は細心の注意と最高級の技能をもってしても、一〇〇パーセントこれを避けることは不可能であるし、小玉の執刀は適切なものであった。すなわち、本件手術による侵襲は、不可避的なものであった。なお、脾臓の背後の臓器傷害を特定することはできないし、脾臓摘出以後の手術は小玉ではなく塩崎が担当している。

また、本件手術中の出血は、亡泰典の体型からして甚だしく多いとはいえない。本件手術後の出血も、丹念な計量の時間的推移と、並行して行われた輸血の量や速度にかんがみると、手術後の経過の重篤化に直接影響を与えるものではなかった。

(3) 術後管理の注意義務違反の主張に対する反論

小玉は、亡泰典の手術創、ドレーン開口部等の消毒を毎日行って、抗生剤二種類を投与し、吸入の施行、去痰剤投与等も不備なく行ったのであり、術後の感染防止に怠慢はなかった。すなわち、腹膜炎、劇症肝炎のいずれも感染予防とは無関係に生じたものであるし、本件手術後五月一七日までの出血も経過の重篤化に直接影響を与えるものではなかった。

(二) 塩崎の治療行為上の注意義務違反の不存在

(1) 小玉に対する指導監督上の注意義務違反の主張に対する反論

本件手術における小玉の術技に不手際はなく、塩崎において指導監督をする必要はなかったし、もとより塩崎は、小玉の手術のでき具合を見ながら口頭の指示を繰り返し、手に負えなくなれば直ちに交代できる態勢で手術に立ち会っていた。

(2) 完全に止血をしなかった注意義務違反の主張に対する反論

本件手術中に完全な止血はできなかったが、腹圧による自然的止血が期待でき、特に問題がないものであった。

(3) 術後管理の注意義務違反の主張に対する反論

前項(一)(3)と同旨。

2  不法行為責任について

前項(債務不履行責任について)と同旨。

四  争点

1  亡泰典の死亡についての被告の責任の有無

(一) 債務不履行責任の有無

(1) 小玉の治療行為上の注意義務違反の有無

① 手術の選択に関する注意義務違反の有無

a 手術の選択をしたこと自体について

b 手術時期の選択について

c 循環動態の改善について

② 本件手術の術技上の注意義務違反の有無

③ 術後管理の注意義務違反の有無

(2) 塩崎の治療行為上の注意義務違反の有無

① 小玉に対する指導監督上の注意義務違反の有無

② 完全に止血をしなかった注意義務違反の有無

③ 術後管理の注意義務違反の有無

(二) 不法行為責任の有無

2  原告らの損害の有無及び数額

3  過失相殺の可否及び程度

被告は、仮に被告に何らかの責任があるとしても、亡泰典は、主治医杉本俊六の指示を守って、抗潰瘍剤の服用を十分にせず、かえって、飲酒を度々していたうえ、原告らも、亡泰典の右態度を漫然と放置していたため、吐血するまでに容体を悪化させていたものであり、その結果本件手術の内容を困難ならしめ、予後を悪化させるような状況をつくり出したのであるから、被告の賠償額の算定において、右事情を斟酌すべきであると主張する。

第三  当裁判所の判断

一  争点1(一)(1)(小玉の治療行為上の注意義務違反の有無)について

1  同①(手術の選択に関する注意義務違反の有無)について

(一) 本件手術前における亡泰典の容体及び小玉らのとった処置等

争いのない事実及び証拠(甲二、九、一〇の一ないし四、一二、一五ないし一八、二四、三〇、三二、三四の一、二、三五ないし三八、四一ないし四四、四六、四八、五〇ないし五三、六一、九七、九八、乙一ないし一一、一八、二二、二六ないし二八、三〇、三八ないし四二、四八、五二、五三、六〇、六五、六六、七二ないし七四、七八ないし八一、八三、九一、一〇四、一〇五、一〇七、一〇九、証人小玉仁、証人塩崎秀郎、証人豊田忠之、鑑定、弁論の全趣旨。なお、原告らは、乙二、三〔いずれも成立に争いがない。〕の改竄を主張し、その信用性を問題にしているので検討する。乙二については、本件記録に編輟された写し中、五二頁の用紙に問題のあること(用紙の印刷日時と記載内容との齟齬等)は原告ら指摘のとおりであるが、原本の記載内容・体裁自体に問題はない。また、五ないし八頁分の写しも、単なる乱丁であって、七、八、五、六頁と整序すれば問題はなく、六頁に輸血シールが貼付されていないのは、輸血シールが乙三の八頁にあることに照らしてやはり問題がない。乙三については、一五ないし二三頁の指示欄の記載が、医師の手になるものではなく看護婦の手になるものではあるが、これは医師の手になる二四ないし三一頁の記載を転記するなどしたもので、指示の主体が医師であることに問題がない。その他の乙二、三の記載内容についても、その信用性に問題がない〔甲三九の一ないし三、乙二、三、六一、六四、六五、九九、証人小玉仁、弁論の全趣旨〕。)によれば、次の事実が認められる。

亡泰典は、昭和六〇年五月一四日午前九時三〇分ころ、昭和五七年九月ころからの持病である胃潰瘍のため、吐き気を訴えて約二〇cc吐血し、同日午前一〇時三〇分ころ、掛り付けの杉本医院において点滴と吐血剤の注射の処方を受けたが、同日午後七時一〇分ころに、再び約一八〇ccの吐血をしたことから、同七時四〇分、救急車で被告病院に搬送された。亡泰典の容体は、血圧八六/三〇mmHg、P九四回/分、軽度貧血性、腸雑音(蠕動音)減弱、腹部軟(腹膜炎なし)、打診上鼓音なしという症状を呈し、吐血後のショック症状に陥っていると診断ないし判断され、輸液(ハルトマン五〇〇ml+止血剤)及びセクレパン6A等の投与を受けた。そして、同九時に入院し、輸血一本二〇〇ml(輸血シールの番号・O型一三・五―四四二九)を受けた。同時刻には、血圧一一二/七二mmHg、P一〇八回/分であり、同一一時三〇分には、血圧九〇/六〇mmHg、P九六回/分であった。同日中の輸液は、ハルトマン五〇〇ml、フィジオゾール三号五〇〇×二本、ハルトマンD五〇〇mlであった。

そして、同月一五日午前零時頃、胃カテーテルからの暗血性流出約一〇〇mlがあり、同零時一五分、輸血一本二〇〇ml(輸血シールの番号・O型一三・一―一三四六)を受けるとともに生理食塩水による胃洗浄を受けた。同六時、血圧九八/四〇mmHg、P七二回/分で吐血の状態となった。また、同一時二〇分から四時までの間の胃カテーテルからの流出量合計八二〇ml、尿量合計六〇〇ml、輸液合計二一〇〇ml(フィジオゾール三号五〇〇ml×二本、ハルトマンD五〇〇ml×二本等)であった。同八時三〇分、血圧一四八/九〇mmHgで、出血はなかったが、同八時四〇分、胃洗浄のうえ胃カメラ検査を受けたところ、胃潰瘍底の血管が二か所で露出し、動脈破綻を伴う巨大潰瘍(2.2cm×4cm)が発見され、保存的止血は困難と判断された。小玉は、同日午後二時ころ、右検査の結果、亡泰典の胃潰瘍の治療方法として、保存的止血は困難であり、手術の絶対的適応があると判断し、その緊急性につき、いわゆる準緊急手術(早期手術)で足りると判断し、翌一六日の手術実施を決定した。一方、亡泰典は、輸血二本四〇〇ml(輸血シールの番号・O型一三・一―一三四二、一―一三四七)を受けた。亡泰典の同月一五日午後九時の血圧は、一一〇/六〇mmHgであった。

亡泰典は、同月一六日午前六時、上腹部痛があったものの、血圧は一三二/八〇mmHg、Pは八四回/分であった。同一〇時三〇分、生理食塩水五〇〇mlによる浣腸を受け、小玉の許可を得てトイレまで歩行して黒色大便を大量に排泄した。同一一時、麻酔科の診察を受け、貧血(Hb9.7g/dl)、心臓弁膜症の既往症があるものの十分麻酔に耐えられると判断された。血圧は一五〇/九〇mmHg、Pは八四回/分であった。ところが、同日午後一時、便意を催し、今度は小玉の許可を得ることもなくトイレまで歩行したところ、気分不良となり、顔面蒼白・冷汗の症状を呈して出血性ショックの状態に陥り、血圧は五〇/(測定不能)mmHgであった。小玉において、同一時七分、亡泰典にショック体位をとらせてエフェドリン1/2アンプルの静注を、同一時一〇分に更にエフェドリン1/2アンプルの静注を行った。その後、亡泰典は、二回にわたって凝血多数を含む合計二〇〇mlの本件吐血をしたため、冷水による胃洗浄及び輸血一本二〇〇ml(輸血シール番号・O型一三・三―一六九一)を受けた。同一時二〇分の血圧は九〇/(測定不能)mmHg、Pは八四回/分であったが、輸血の終了した同一時五〇分の血圧は一一〇/六〇mmHg、Pは一二〇回/分となった。同二時に胃洗浄が終了し胃カテーテルより血性の流出があったが、血圧は一〇八/六四mmHgとなった。この間の午後一時三五分及び午後二時一五分の二回、少なくとも輸液としてハルトマン合計一〇〇〇mlの処置がとられた。同二時三〇分には、胃部痛、吐き気、四肢冷感、チアノーゼのいずれもなく、血圧一一〇/六〇mmHg、P一〇八回/分と症状の回復をみた。同三時、血圧は一三〇/七〇mmHg、Pは一二〇回/分であり、こげ茶色の水様便があり、胃カテーテルからの流出も一七〇mlあった。同三時二〇分には、胃カテーテルからの淡血性流出二〇〇mlがあり、輸血一本二〇〇ml(輸血シール番号・O型一三・三―一七三〇)を行った。その結果、手術室へ移動した同三時三〇分には、血圧が一一〇/六〇mmHgとなり、同三時三五分の尿量は三五〇mlあった。

なお、亡泰典の体型は、四肢及び肩幅についてはともかく、身長約162.7cm、体重六七なしい七〇kgで、入院当時、肥満の状態にあると判断された。

(二) 手術選択をしたこと自体及び手術時期の選択について

前記認定にかかる事実関係及び前掲各証拠に照らして以下順次検討するに、前記のとおり本件手術の前日である五月一五日に胃潰瘍底の血管露出・動脈破綻を伴う巨大潰瘍が発見され、その潰瘍が筋肉層に達している(UIのⅢないしⅣ)と考えられたことを前提とすれば、亡泰典の胃潰瘍の治療方法として、エタノール局所注射等を主とした内視鏡的止血法等による保存的療法では、胃を穿孔してしまうおそれもあって、治療の成功する可能性が甚だ小さかったことから、小玉において、手術の絶対的適応があると判断し、なお、その緊急性については、いまだ亡泰典の救命上一刻を争う状態にまでは至っていなかったため、いわゆる準緊急手術(早期手術)で足りると判断し、翌一六日に本件手術を実施することを決定したというのであって、右各判断は、いずれも当時の一般の医療水準に照らして適切であり、特段問題とされるべき点は見当らない。そして、同日午後一時一〇分の本件吐血の結果、小玉において、緊急手術適応があると判断し、その後における抗ショック療法により亡泰典の全身状態が比較的落ち着いた状態にあったことから、同日中に本件手術を実施したことも、右の医療水準に照らして適切な判断・処置であったというべきである。すなわち、右時点において本件手術を更に延期することは、右潰瘍の大きさ、血管露出の頻度、それまでの出血の経過、亡泰典の年齢等にかんがみると、再出血及びそれに伴う全身状態の一層の悪化を招来する危険性が高く、同日中の手術実施に踏み切らざるを得ないという客観的状況からも裏付けられる。

また、右手術適応の判断の基礎となった資料は、同月一四日の外来時検査にかかる血算、肝機能、BUN(血中尿素窒素)、ザルツ、総脂肪、血液型、HB抗原、クロスマッチ、ワッセルマン反応、胸部腹部X線写真等の結果、同月一五日の検査にかかる血算、出血凝固時間、EKG(心電図)、検尿、胃カメラ等の結果及び、同月一六日の検査にかかる麻酔科の診断等の検査結果であるところ、これらの検査は、待期手術の場合とは異なり、同月一六日の準緊急手術を予定しての術前検査としては十分であったし、また右各検査数値によれば、亡泰典に貧血、高血圧性心肥大、動脈硬化、腎機能障害の存することが推測されたが、その検査結果中に手術・麻酔を禁止するような数値は見当たらず、術前リスクが2E(軽〜中等度の系統的な障害をもつ患者に対する緊急手術)と判定された点に格別問題もなかった。しかも、本件吐血によって緊急手術適応が生じた時点において更に検査を実施するとしても、緊急手術適応となった以上、限られた時間内において、亡泰典の安静を妨げないという制約の下に、術前の全身状態と主要内臓の機能予備力まで精査することは期待できない状況にあったし、仮に心肺機能の予備力に不安のあることを示すデータが得られたとしても、亡泰典の胃潰瘍の症状及び身体状況等に照らして、同日中の手術予定を延期する時間的余裕はなく、したがっで、亡泰典に対する右術前の検査は、緊急手術を前提として最小限の術前検査として妥当なものであったというべきである。なお、当時の全国的な医療の水準からすれば、動脈血ガス分析及びCVP測定は、亡泰典に対し特に過重な負担を与えることなしに実施することも可能であったが、本件においては、これらの検査を行ったとしても、その結果により、手術の適応の判断が左右される可能性はなかった。

そうすると、小玉が、亡泰典の胃潰瘍の治療方法として、本件手術の実施を選択し、その時期を同月一六日午後に決定したことは、当時の一般の医療水準に照らして適切な判断というべく、これをもって診療契約上の注意義務違反が存したものとは認められない。

(三) 循環動態の改善について

出血性ショックとは、外傷や手術等による出血によって循環血液量が減少したため、心拍出量が低下し、血圧が低下した状態をいい、その重症度は、出血量に相関するほか、循環血液量の減少の調整に要する時間的因子も重要であり、蒼白、虚脱、冷汗、脈拍微弱、呼吸不全等の諸症状や収縮期血圧、尿量、ヘマトクリット値、CVP、血圧ガス等の諸検査の結果を総合して判定されるものであるところ、亡泰典については、前記認定の諸症状及び血圧等に照らして、同月一六日午後一時ころには出血性の重症ショック状態に陥ったものと判断される。ただし、右ショックの発生が、トイレに歩行したことに原因を有するものであるかは不明である。

そして、出血性ショックに対する処置としては、一般的には、まず患者を安静状態に置き、失血量に見合った血液量を補充する必要があり、具体的には乳酸加リンゲル液の急速輸液(一〇〇〇ないし一五〇〇mlを三〇分以内に輸注する。)を開始し、次に輸血用血液が手配され次第、できれば別の静脈から輸血し、とりあえず、循環血液量の回復(ただし、失われた赤血球の補充をするものではない。)を図ることが急務とされるが、その際、再出血や心不全を危惧して、収縮期血圧が一〇〇mmHgを越えないように監視を続けなければならない。なお、一時間八〇〇ml以上の急速全血輸血をすることはむしろ危険とされている。また、併用すべき薬剤としては、心機能の維持や末梢循環の改善等を図るため、重炭酸ソーダ、副腎皮質ホルモン製剤、カテコールアミン(ドーパミン等)の投与も効果的であるが、同時にマスクによる酸素吸入も必要である。このようにして、収縮期血圧八〇ないし一〇〇mmHg、脈圧三〇mmHg、尿量三〇ml/時を超え、CVPが三ないし一〇cmH2Oとなればショック状態を離脱したものと評価できるものである。なお、出血性ショックに対する薬物療法の一つである昇圧剤は、その投与による効果が長時間に及ぶと心不全、不可逆性ショックをきたすおそれがあることが指摘されているが、輸血・輸液とともに併用的・副次的に使用される限り特に問題ではない。そして、昇圧剤の一つであるエフェドリンには、交感神経末梢から昇圧物質(カコールアミン)の放出を促進するという作用があり、それによって心拍出力の増強が期待されているものの、その昇圧作用は間接的であり、エピネフリンに比較して末梢血管収縮効果は弱いため、輸液を行いながら静注をすることは、緊急の際には禁忌とはいえない。もっとも、出血性ショックに用いる昇圧剤としては、ドーパミンの方が効果が確実で、また、利尿作用もあり、心不全防止のうえで、優れているとされている。

そして、前記認定事実及び前掲各証拠によれば、本件においても、本件吐血による出血性ショック後、小玉によって遅滞なく胃洗浄、輸血合計四〇〇ml、輸液合計一〇〇〇ml、さらに昇圧剤としてエフェドリンの投与といった抗ショック療法がとられた結果、亡泰典に貧血・脱水症状がなお残存していたものの、一時間後の症状、収縮期血圧、尿量はいずれも軽症ショックないし前ショックの状態にまで回復しており、ヘマトクリット値だけが大量出血(血液の希釈)を窺わせるのみであった。特に、顔貌、顔色の好転、一時間五〇mlの尿量等にかんがみると、エフェドリン静注とは無関係に、軽症ショックないし前ショック状態にまで循環状態が回復していたと判断される。そして、午後二時の時点においては、CVP測定値(未測定)を除いて、収縮期血圧一〇八mmHg、脈圧四四mmHg、尿量として午後一時三五分に二〇〇ml、午後三時三五分に三五〇mlとなり、一応のショック離脱の指標を超えており、この時点以降手術開始時刻までの間に、再びショック水準以下に亡泰典の容体が下がった記録はなく、右午後二時の時点をもってショック離脱の時刻と判断される。

なお、原告らは、亡泰典に吸引用チューブ(経鼻胃管)が留置され有効に機能していれば、午後一時以前に出血を察知できたし、本件手術前に、胃内の凝血塊を吸引排除し、胃内の清浄ができた旨主張するところ、確かに経鼻胃管が有効に機能していれば、再出血を探知できたはずであるが、実際には胃内の凝血によりチューブが閉塞して有効な指標にならないことが多いし、そもそも潰瘍の露出血管からの出血は持続的というよりは間歇的なことが多く、一旦出血が始まれば急速に出血して吐き気や吐下血等の自覚症状を呈することで本人及び周囲の者もすぐに察知でき、しかも、出血開始の時刻や規模を正確に知るためには、必ずしもチューブの留置が不可欠であるという訳ではなく、むしろ、自覚症状、脈拍数、血圧、顔貌、呼吸状態等の厳重な観察の方が信頼性が高いということができる。そして、異変を知ったとき遅滞なく抗ショック療法を開始できる態勢が整っていることの方がより肝要というべきである。また、破綻した小動脈から急速に出血して胃内において凝固した凝血塊を、手術前に経鼻胃管を用いて有効に吸引排除して胃内を清浄にすることは、実際上極めて困難であって、本件のような手術例において、開腹した時に胃内の凝血で胃が膨満していることはしばしば経験されることであり、これをもって手術前の準備が不十分ないし不適切であったということもできない。

そうすると、小玉による亡泰典のショック状態の改善は短時間のうちに適切に行われたものと認められ、しかも、胃潰瘍底の動脈が破綻したままであったことを考慮すると、その結果としての出血やショック及び貧血を防止する有効な手段は輸血・輸液とそれによる循環動態回復後の早期開腹手術のみであったというべきであり、更に時間をかけて諸臓器に残るショックによる後遺障害の程度、すなわち臓器予備力までも評価する余裕はなかったものといえるから、小玉のとった循環動態の改善の処置は、当時の一般の医療水準に照らして適切な処置であり、これをもって、診療契約上の注意義務違反が存したものとは認められない。

2  同②(本件手術の術技上の注意義務違反の有無)について

(一) 争いのない事実及び証拠(甲二〇、四三、五九、七二、九九、乙二、一三ないし一七、三九、四八、五五、六一、六四、七八、証人小玉仁、証人塩崎秀郎、証人豊田忠之、鑑定、弁論の全趣旨)によれば、次の事実が認められる。

本件手術は、昭和六〇年五月一六日午後四時三一分、全身麻酔のうえ小玉の執刀で始められ、まず、上腹部正中切開により開腹したところ、腹水症はなく、胃は膨張し、胃角部小弯側に硬結が認められ、膵臓前面から小網にかけて癒着があったが、肝臓や胆嚢はいずれも正常で、ダグラス窩に異常はなく、脾臓は背側に深く位置し、授動できなかった。そこで、大網を切離し、右胃大網動脈を結紮したうえ、十二指腸を授動し、次に、小網を切離し、右胃大動脈を結紮し、十二指腸を幽門部から約一cm離して切離し、塩崎において、膿盆上に胃内容物を排出した。その際、凝血約二五〇mlが出てきた。次に、小玉は、脾臓背面にひも付きガーゼを入れて授動し、大網を短胃動脈近くまで切離し、左胃動脈下行枝を切離しペッツ(ペッツ氏の胃縫合器)にて胃切したうえ、ビルロートⅠ法(切除した胃の残部大弯部と十二指腸とを吻合する方法)により胃の再建をした。

ところが、右処置を終えて洗浄を実施したところ、左横隔膜下に血液が貯留していたことから、更に腹腔内を検索すると、脾臓大腸間膜及び脾臓が裂けて出血していた。そこで、小玉から塩崎に執刀者を代え、左横切開を追加し、短胃動静脈にケリー(鉗子の一種)を掛け、残胃の色が変わらないことを確認して止血のため脾臓の摘出をした。しかしながら、完全な止血はできなかった。そのため、左横隔膜下にペンローズ(ドレーン)、デュープルドレーンを、吻合部と左肝下面にペンローズをそれぞれ挿入して閉腹し、同八時三〇分、完全な止血をみないまま手術を終了した。なお、本件手術中の出血量は、合計約一二六一ml(胃内の凝血二五〇mlを含む。)であり、輸血量は合計一八〇〇ml輸液量はハルトマン合計二二五〇mlであった。

(二)  右認定にかかる本件手術の経過等に照らすと、本件手術における脾臓損傷の原因の一つが、胃切除術を行うに際して胃、結腸及び大網を牽引操作したことによるものであり(ただし、右牽引操作は執刀医である小玉と、助手役を努めた塩崎が同時に共同で行っていたため、いずれの行為に起因するものか特定することはできない。)、しかも、脾臓等の損傷に対する処置として摘脾術を選択したことから、結局全手術時間として合計三時間五九分を要し、また、手術中の出血量が一二六一mlとって侵襲を更に増大させたものであって、このような本件手術による侵襲が、亡泰典の年齢、手術前の経過、殊に多量の吐血等に伴う呼吸、循環機能の予備力の低下と相俟って結果として過大な侵襲となったことは否定できない。

しかしながら、医切除術を実施するにあたり、そもそも胃又は横行結腸を右側・手前・下方に牽引することは必要な操作であり、その際、胃や結腸の膨満、大網への脂肪沈着過多、全身肥満等が誘因となって、牽引の力が特に強く働らかなくても、脾結腸間膜の脾臓への付着部分が裂けて脾被膜(脾臓の表面)が部分的に剥離し、脾実質からの出血をみることがあり、脾臓が周囲(特に後方)に癒着している場合には、このような事態に至ることが多い。すなわち、胃切除に際しての脾損傷は、細心の注意と最高級の技能をもってしても、一〇〇パーセントこれを避けることは不可能である。そして、本件全証拠によるも、小玉の本件手術における手技が、当時の医療水準に照らして、未熟で劣っていたものと認めるに足りない。なお、脾臓の背後の臓器傷害についても、その部位及び傷害をした者が小玉であるか塩崎であるかを特定することはできない。

そうすると、亡泰典に対する小玉の執刀内容等の術技は、許容されうる水準内にあって、亡泰典に対する手術侵襲は、結果として不可避的なものと認められる。すなわち、脾臓摘出に至った小玉の本件手術における手技は、当時の一般の医療水準に照らして不適切なものとはいえず、これをもって、診療契約上の注意義務違反が存したものとは認められない。

3  同③(術後管理の注意義務違反の有無)について

(一) 争いのない事実及び証拠(乙二、三、三九、四八、五六ないし五八、七九、証人小玉仁、証人塩崎秀郎、鑑定、弁論の全趣旨)によれば、次の事実が認められる。

亡泰典は、本件手術前から出血性ショック等による心肺不全や抵抗力の低下、体内組織の低酸素血症の進行があったところに、本件手術中及びその後の腹腔内汚染に起因する細菌感染が加わったため、これが劇症化してエンドトキシンショックに陥り、多臓器不全となって死亡した。その間、小玉らは、亡泰典に対する術後管理の一環として、細菌感染対策をとり、滲出液の細菌学的検査を反復しながら、ドレーン開口部の毎日の消毒、去痰剤の投与、ケフドール(セファマンドールナトリウム)及びアミカシン(硫酸カミカシン)の抗生物質二種の投与を行った。また、術後の止血措置として、特に再開腹手術を行わなかったが、腹腔内のドレーンからの出血は手術後三日目でほぼ止まった。なお、右細菌感染の増悪は、ドレーンの有無にかかわりなくもたらされたものであった。

(二)  右の経過に照らして検討するに、右の細菌感染対策については、当時の医療水準に照らして適切なものであったといえる。

また、止血措置として右再開腹の手術を実施しなかったことについても、問題はなかったものといえる。確かに、左横隔膜下は、呼吸運動に同調して陰圧と陽圧とを反復する場所であるとともに、仰臥位においては最も低い位置にあって、開腹手術後には腹腔内の血液等の液体が貯留しやすい部位であるため、ここに挿入留置されたドレーンの内腔が開通している限り、呼吸運動に同調してドレーンから血液の混じった滲出液が流出することになるが、本件の場合、その出血に対応し、約一〇時間をかけて六〇〇ml程度の輸血を行うことによって、循環動態とヘモグロビン値が維持できていたものであるし、そもそも、新鮮血の出血が継続していたのであればともかく、単に同月一七日以後においても呼吸性の血性滲出が持続したこと(ただし、同月一八日には淡血性に、同月一九日には暗赤色になっている。)自体は再開腹手術の適応とならないばかりか、かえって、亡泰典に対し再開腹の手術を実施したとすれば、そのリスクは極めて高く、たとえ再手術中に止血できたとしても、再手術後の心肺機能への影響は大きく、感染拡大の機会も一層増加し、敗血症への移行は更に促進され、救命の可能性は小さくなったものと推認される。

さらに、小玉らは、多臓器不全に進行してゆく過程において、その症状改善・克服のため、レスピレーター使用による酸素補給、ハイカリック(高カロリー輸液)の点滴、人工透析を行うなどの処置もとっていた。

そうすると、小玉のとった細菌感染防止の処置及び止血のための再開腹手術を採用しなかった判断を含めた術後管理の処置は、当時の一般の医療水準に照らして適切なものであり、これをもって、診療契約上の注意義務違反が存したものとは認められない。

二  争点1(一)(2)(塩崎の治療行為上の注意義務違反の有無)について

1  同①(小玉に対する指導監督上の注意義務違反の有無)について

前記一2においてすでに認定判断したとおり、小玉の本件手術における手技は、当時の一般の医療水準に照らして、特段不適切な点は見当らなかったのであるから、そもそも、塩崎の小玉に対する指導監督上の注意義務違反を問題とする余地はなく、他に本件手術における塩崎の小玉に対する指導監督上特に診療契約上の注意義務違反が存したものと認めるに足りる立証はない。

2  同②(完全に止血をしなかった注意義務違反の有無)について

(一) 前記認定事実のほか証拠(甲五四、五五、五九、六九、七五、七七、七九、八二、乙一三、一五ないし一八、二四、三九、四二、五五、証人小玉仁、証人塩崎秀郎、証人豊田忠之、鑑定、弁論の全趣旨)によれば、次の事実が認められる。すなわち、胃切除術において脾臓に損傷を与え出血が続いている場合、執刀医としてとるべき止血の処置としては、まず脾臓の背面への固定が余り強くなく、可動性があって、小範囲の被膜剥離に止まっているのであれば、ガーゼ又は手指による圧迫で止血することが多いが、仮に脾臓の背面への固定が強く前方への可動性が小さいうえ、脾臓の損傷程度が単なる脾臓表面の被膜剥離に止まらず脾実質の裂創を伴う場合には、縫合や圧迫を試みても止血が困難なときがあり、このような場合には、時間を浪費して出血量を増加させるよりも、脾門部で脾血管を結紮切離し、脾臓の摘出を行う方が術後の出血も少なく、結果的に安全なこと、さらに、脾臓の固定が一層強固で奥深くに存在する場合、脾血管を処理するためには、脾臓が付着している後腹膜を一部切開して剥離を行い、脾臓を前方に授動しなければならず、この際、特に脂肪層が厚い場合には、後腹膜の小さな血管を損傷する危険があり、このような場合には、脾臓を摘出しても後腹膜の欠損部から小規模な出血が残ることになり、いずれにしても、一旦脾臓摘出に踏み切った以上、摘出後の出血点についても可及的に完全な止血を行い、腹腔内、殊に横隔膜下に血液や滲出液の貯留のないよう適切な措置をしたうえ、手術を終えるべきであり、換言すれば、胃切除術においては、胃内容物が手術野に曝されることが多かれ少なかれ不可避なため、手術の過程で腹腔内が細菌により汚染され、細菌感染を引き起こすおそれが存在するところ、仮に、凝血塊がそこに貯留していれば、細菌増殖の一層の好適な培地になる可能性が大きいこと(なお、塩崎らが、不必要に右汚染を拡大、重大化させたと認めるに足りる証拠はない。)、ところが、本件手術において、塩崎は、出血点の特定ができず完全な止血はできなかったものの、右は静脈性出血であったことから、腹圧による自然的止血を期待して縫合閉腹し、手術を終了したものであるが、右のような処置は、腹腔内出血が胃腸管内出血に比べて自然止血が期待し難いこともあって、標準的な手技とはいえず、その実施例も少ないうえ、手術後の合併症の発生が高率かつ重篤になるおそれもあり、現に本件の場合においても、手術後四日目を過ぎても、淡くなったとはいえ、血性の滲出が続き、細菌増殖の好適な培地になる結果を招いたこと、以上の各事実が認められる。

(二) しかしながら、他方、一般に、手術による侵襲時間が四時間を超えると合併症の発症率が高まることが指摘されているところ、本件手術が既に約四時間に及んでいたこと、本件手術が緊急手術(当初は準緊急手術として予定。)として、手術前に亡泰典の容体、特に臓器予備力の検査を十分に行ってこれを把握することが困難であったため、臓器予備力に疑問が持たれた状況下で実施されたものであったこと、また、出血点を特定できなかった原因が、腹部正中切開により左横切開を追加したにもかかわらず、亡泰典の胸郭が深く脾臓裏面の後腹膜が確実に視野に入らなかったうえ、大網及び後腹膜への脂肪沈着が過多になっていたこと(さらに、横行結腸をはじめとする腸管全体が膨満していて深部の視野を妨げた可能性もある。)から、塩崎は、完全止血を断念し、腹圧による自然的止血を期待したものであること、また、血液が体外に速やかに排除されれば、大事に至ることも少ないところ、塩崎においても亡泰典の腹腔内にドレーンを設置する処置をとっており、実際に手術後のドレーンからの出血量と必要輸血量の推移からみて、腹腔内への凝血遺残は少なかったものといえるし、結果的には、予想外に早期の止血が可能となったこと等の諸事情を総合して勘案すると、塩崎の不完全な止血処置は、本件手術が待期手術であればともかく、緊急手術であった以上、やむを得なかったものというべきであり、もとよりこのような完全止血を困難にする要因は、ビルロートⅠ法を行う前後によって変化するものではなかった。

そうすると、塩崎のとった止血処置は、当時の一般の医療水準に照らして、不適切ないし劣悪なものであったとはいえず、これをもって、診療契約上の注意義務違反が存したものとは認められない。

3  同③(術後管理の注意義務違反の有無)について

前記一3において認定判断したとおり、亡泰典に対して施された術後管理は、当時の一般の医療水準に照らして、適切なものであったのであるから、塩崎の術後管理についても、診療契約上の注意義務違反が存したものとは認められない。

三  争点1(二)(不法行為責任の有無)について

原告らの不法行為の主張事実も、以上の診療契約上の注意義務違反の事実と共通であるので、以上の認定によれば、当然不法行為の主張も認められない。

第四  結論

以上によれは、原告らの本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく、いずれも理由がない。

(裁判長裁判官鈴木航兒 裁判官板垣千里 裁判官佐々木宗啓は、転補につき、署名押印することができない。裁判長裁判官鈴木航兒)

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